玉島のだるまづくり
子や孫の幸せを願って祖父母が買い求めた<だるま>さん。
幸せを招くとして正月の縁起物として今でも人気のある<だるま>さん。
その<だるま>づくりで知られる倉敷市の玉島地区は、今や西日本で唯一の産地となりました。
現在、「小野だるま製造所」と「玉島ダルマ・虎製造所」の2ヵ所が<玉島だるま>をつくり、守ってきています。
玉島だるま 西日本唯一の産地
玉島地区で<だるま>がつくられるようになったのは戦後のこと。当時、<だるま>といえば高崎市の<高崎だるま>が全国的に有名で、倉敷などでも縁日などで売られていました。
戦後の復興のどさくさの中、いかめしい顔にもかかわらず、なんとなく親しみのある<だるま>が、「玉島の郷土玩具になるのでは」との思いから造りはじめたのが、現在の「小野だるま製作所」と「玉島ダルマ・虎製造所」でした。
「小野だるま製作所」は、先代が高崎市に出かけて<だるま>の造り方を勉強するなどして、1946年(昭和21年)につくり始め、「玉島ダルマ・虎製造所」は何年か遅れたのですが、いずれも、<高崎だるま>を手本とし、改良を加えて今のかたち、<玉島だるま>をつくってきました。
七転び八起き
<玉島だるま>は二つの特徴があります。
ひとつは転んだら起き上がること、達磨大師の七転び八起きの不屈の精神をきちんと具現しています。もうひとつは両目が入ってないことです。これは願いごとをする際に片目を入れ、願いが叶ったらもうひとつを入れて成就を喜びあうためだそうです。
つくり方は「小野だるま製造所」も「玉島ダルマ・虎製造所」も大きな差異はありません。
型にあわせて<だるま>原型をつくると、これに顔料の一種胡粉(ごふん)を、白の次に赤と塗っていき、乾くと顔の髭や口を描き、金色で装飾しニスを塗って仕上げます。
玉島ダルマ・虎製造所
「玉島ダルマ・虎製造所」の創業者、中桐一人さんは、高齢にも関わらず今でも1日に8時間は仕事場に座るという。
仕事場は自宅に隣接した古い座敷とコンクリートの庭先で、つくり掛けのだるまがところ狭しと並ぶなか、二人の女性作業員が赤や白の地塗りをし、座敷では中桐さんがだるまの顔を描いています。
郷土玩具づくりの仕事場らしい、おだやかないい風景です。
「玉島ダルマ・虎製造所」では、<だるま>の原型づくりで、木型などに新聞紙を貼りつけつくる方法を辞め、グラスファイバー樹脂の型枠に新聞紙の溶かしたものを流し込んでつくっています。
いわば機械化で、これは息子さんの仕事。原型の底に錘(おもり)をいれるのもこの段階です。
「玉島ダルマ・虎製造所」の<だるま>は、一番小さいのが豆だるまといって8cmぐらい。
それからだんだん大きくなって50cmや70cmのもの、もっとも大きいのが1mと、全部で19種類つくっています。
「墨で眉や頬髯を描きますが、勢いよく、一気に描いていくのがいちばん難しいところです」と中桐一人さん。
小野だるま製造所
「小野だるま製造所」は2代目の小野三次さん夫妻が<玉島だるま>を守っています。
自宅の離れが作業所になっていて、2代目小野さんが白の地塗りをし<だるま>の赤いボディを塗っていきます。
顔を描くのは奥さん。眉や髭など丁寧に描きこんでいきます。
「小野だるま製造所」の<だるま>の原型づくりは、鋳物の型に新聞紙などを何重にも貼りつけてつくる昔ながらの手づくりです。
これは先代が木型を自分で彫ってつくっていたことの名残だそうです。
新聞紙を貼りつけるつくり方は手間のかかる作業ですが、「小野だるま製造所」ではこうした作業は内職として地域の家庭に委託しています。地域をあげての<だるま>づくりです。
「小野だるま製造所」の<だるま>はどんな小さなものにも、「福」の文字が入っているのが特徴で、種類はもっとも小さい11cmから数センチずつ大きくなって、最大のものは特大号70cmまで16種類あります。
「うちのだるまは赤い衣装に、金色の文様をつけて【福】を四方八方から抱き寄せるイメージにしています」と小野三次さん。
西日本唯一の産地となった玉島地区の<玉島だるま>は、<起き上がりこぼし>のような郷土玩具として子どもに親しまれているほか、子どもの健やかな成長を願ったり、合格を祈願したりする願掛けだるまとして広く利用されています。
最近では、各種選挙の必勝祈願でなくてはならないようですし、新郎新婦に贈られる結婚式の寄せ書きに白いボディのだるまさんが愛用されているそうです。