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方谷とかりの人

丸川 松隠まるかわ しょういん

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【1758~1831】宝暦8(1758)年、浅口郡西阿智村(倉敷市西阿知町)に生まれる。名は、茂延。通称一郎といい、松隠はその号。家系は代々新見藩に仕えていたが、父の代には仕籍を離れる。幼少時に母の訓陶を受け学問の才を現し、6歳で書を読み、字を書いた。15歳で亀山如水に朱子学を学ぶ。のち、父の勧めで讃岐(香川県)に遊学し、医学を学ぶ。その後、京都にも遊学するが定まった師はいなかった。

寛政2(1790)年、中井竹山の塾に入門。尾藤二州・古賀精里・頼春水と交わり、往来した。寛政4(1792)年、老中・松平定信は学制整理のため、松隠を招いたがこれを断り、同年、新見藩主・関長誠の命を受け帰郷した。寛政6(1794)年、藩学思誠館の督学(教授)となり、学制改革を行い、学規を定めた。一方で塾回陽舗を開き、多くの師弟を教えている。藩政にも参与し、「型典」を著し、藩政を改革し、以後「型典」により藩政が行われた。松隠の門人が幕末の変動期に藩を支えて活動したことを考えると、人材育成の点を功績に数えることもできる。

門人には、山田方谷、渡辺松窩、木山楓渓らがいる。詩文は岡本勝美『丸川松隠伝』に収められている。天保2(1831)年没。

板倉 勝静いたくら かつきよ

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【1823~1889】幕末の老中・備中松山藩第7代藩主。文政6(1823)年、陸奥(福島県)白河城で松平越中守定永の8男として生まれる。

勝静が20歳の天保13(1842)年6月、備中松山藩第6代藩主・板倉勝職に嗣子が無いので養子となり、嘉永2(1849)年4月、藩主・板倉勝職が病で藩主を退いたため、勝静は備中松山5万石を襲封して、周防守そして10月伊賀守に改名。勝職は同年8月23日没。

嘉永3(1850)年、山田方谷に命じて藩政改革を始める。

嘉永4(1851)年6月、奏者番となる。安政4(1857)年8月、寺社奉行を兼ねる。安政5(1858)年、安政の大獄が起き、大老・井伊直弼に意見を述べたため、安政6(1859)年2月、奏者番並びに寺社奉行を罷免される。
万延元(1860)年3月3日、桜田門外の変により大老・井伊直弼が暗殺され、文久元(1861)年2月、勝静は再び奏者番兼寺社奉行に任命される。

文久2(1862)年3月、老中に抜擢され、外国掛および勝手掛として外交と財政を所管した。勝静38歳のときであった。

元治元(1864)年6月、老中を罷免される。同11月長州征伐の山陽道先鋒の命を受け、藩兵を率いて広島へ出兵する。翌年1月広島より凱旋。この年慶応と改元された。勝静は再び老中となり周防守を伊賀守に改称する。

慶応2(1866)年7月、将軍徳川家茂没。勝静は一橋慶喜の徳川宗家の相続および将軍就任に尽力し、12月慶喜は将軍となる。

慶応3(1867)年10月、大政奉還の建白書を勝静は受けとり、大政奉還が行われた。

慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが起き、1月6日、慶喜に従い海路江戸に帰り老中を辞任する。

その後、日光・奥州・函館を流転し、明治2(1869)年5月自首し、安中藩(群馬県旧安中藩邸)へ永預の刑に処せられたが、明治5(1872)年1月、刑は解かれた。

明治9(1876)年11月、特旨をもって従五位に叙せられる。明治10(1877)年7月、上野東照宮祠官を拝命する。明治22(1889)年没。

三島 中洲みしま ちゅうしゅう

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【1830~1919】天保元(1830)年、窪屋郡中島村(倉敷市中島)に生まれる。

14歳で山田方谷に学び、早くから文才が認められている。23歳のときに津藩(三重県津市)の儒学者・斎藤拙堂に詩文や文学を、漢学者・石川竹崖に経学(けいがく)を学ぶ。28歳で江戸に出て、翌年昌平黌に入り、30歳のときに山田方谷の薦めで備中松山藩に仕えて藩学有終館の会頭になり、その後、学頭に進む。藩主が幕府老中となり、その顧問を務めた。

慶応4(1868)年の戊辰戦争の際、朝廷のとがめを受けて松山藩が岡山藩などに征討されたとき、方谷らとともに尽力して藩の存続を認めさせている。

明治5(1872)年、朝廷の召しに応じて上京し43歳で法官となるが、常陸(茨城県)の新治裁判所長などを経て、明治10(1877)年に現職大審院判事が廃官となり退官。明治初期のこの頃から西洋の学問が急激に流行したが、三島は人の心を鍛える上で東洋の道徳学問の重要性を強く認識しており、同年に漢学塾・二松學舍(二松學舍大学)を創設し、以後講学と民法成立に尽力。

山田方谷の学問を自らの学問の根源に持ち、二松學舍設立のように育英事業を通じて漢学東洋学の発展に寄与した。大正8(1919)年没。

阿藤 伯海あとう はくみ

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【1894~1965】明治27(1894)年、浅口郡六条院村相部(浅口市鴨方町)に生まれる。俗称を伯海、大簡と号した。祖父の嘉平は、家塾を開き、『嶺南精舎』と称し、父の暦太は、村会議員、銀行支店長等を勤めた。伯海は、男子6人の長男であった。矢掛中学校、第一高等学校を経て、大正13(1924)年、東京帝国大学哲学科を卒業。翌年、京都帝国大学大学院に入り狩野直喜に師事し、経学を専攻する。

昭和10(1935)年前後、明治大学・法政大学において中国文学を講じ、また戦時中には第一高等学校にて漢文学を講じる。昭和19(1944)年51歳で、教授を辞し、鎌倉の地をひき払い、祖先伝来の六条院に帰る。その時の詩作に『離京』、『帰田』がある。昭和31(1956)年、岡山県教育委員に就任したが、1回出席したのみで、時流に合わぬ事を理由に1年で辞任した。

帰郷以来旧宅を守って隠棲すること21年、その間もっぱら漢詩の詩作に精進した。その詩集『大簡詩草』は、昭和45(1970)年、門人高木友之助(元中央大学総長)の手によって刊行された。特に絶筆となった『吉備公館址作』は著名である。

小田郡矢掛町三成の吉備大臣宮境内に、花崗岩製の『吉備公館址碑』が聳えたっている。生涯独身で孤高を貫き、『吉備公館址作』碑文の浄書を終えたのは、実に臨終の半日前であったという。昭和40(1965)年、71歳にて永眠。

原田 一道はらだ いちどう

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遣欧使節一行「東京大学史料編纂書所蔵」

【1830~1910】文政13(1830)年、備中国鴨方藩藩医・原田碩斎の長男として生まれる。

山田方谷に学んだのち、嘉永3(1850)年、江戸にて蘭学医・伊東玄朴に師事し、砲術など洋式兵学を修めて幕府に出仕。

文久3(1863)年、横浜鎖港談判使節外国奉行・池田長発らの遣仏使節団一行に随って渡欧し、兵書の購入に努めるなど、使節団帰朝後も欧州に滞留してオランダ陸軍士官学校に学んだ。

慶応3(1867)年に帰朝した後、戊辰戦争が起こったため故郷の鴨方藩に仕えたが、のち再度江戸へ出府し、陸軍所教授・開成所教授として洋学を教授した。

維新後は沼津兵学校教師を経て、新政府の徴士として出仕。明治2(1869)年、軍務官権判事、明治4(1871)年、陸軍大佐、さらに兵学校御用掛や兵学校大教授、兵学校頭、太政官大書記官、一等法制官などを歴任した。

明治33(1900)年、兵器・軍律刑法研究の功により男爵を授けられて華族に列せられた。明治39(1906)年、勲一等瑞宝章、明治43(1910)年、病を得て国府津別荘に移って静養するも回復せず、肺炎のため東京・裏猿楽町の自邸にて死去。勲一等旭日大綬章を追贈されている。

川田 甕江かわた おうこう

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【1835~1896】天保6(1835)年、浅口郡阿賀崎新田村(倉敷市玉島阿賀崎)に生まれる。隣村・長尾村の小野務に和歌を学んだ後、備中松山藩校教授・鎌田玄渓に入門。藩士に推挙され、昌平黌に入って古賀茶渓(儒官・漢学者・洋学者)・大橋訥庵(儒学者)のもとで学ぶ。この頃、松山藩主・板倉勝静は、山田方谷を用いて藩政改革を断行し、藩財政の立て直しをはかっており、山田方谷に推されて松山藩に仕え、江戸学問所の督学となる。

慶応4(1868)年に鳥羽伏見の戦いが起こる。松山藩は賊名を負ったが、変装して上京し、太政官弁事・秋月種樹に上書し、奔走の結果、藩の嫌疑を解いて復封、板倉家の存続に尽力した。維新後は江戸に出て、牛込で塾を開いて子弟教育に努めている。のち、宮内省につとめ、諸陵頭・東宮御用掛に塁進、その後、東京大学教授・貴族院勅選議員・宮中顧問官などを歴任している。明治29(1896)年没。

晩年、『古事類苑』を監修。学問は、朱子学を主としているが、明清諸家にも広く通じ、陽明学にも心を寄せた。殊に文章に長じ、重野成齋(漢学者・国史学者)と並んで明治の両大家と称せられた。

野﨑 武左衛門のざき ぶざえもん

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【1789~1864】寛政元(1789)年、児島郡味野村(倉敷市児島味野)に生まれる。文化4(1807)年、18歳の頃に、足袋の製造・販売を手がけ、数年後には工場制手工業に発展するが、文政9(1826)年頃に行き詰まり、塩田開発へ視点を変える。文政10(1827)年に許可を得て以降、野﨑浜(味野・赤崎)を始め亀浜塩田・東野﨑浜(共に玉野市)を開き、塩・石炭問屋営業の許可・免許に基づく塩業経営を行う。これら一連の塩田開発の成功により、弘化4(1847)年に苗字帯刀を許される。

また、既に始まっていたが不調だった福田新田(倉敷市)の開発に嘉永2(1849)年から携わり、年限通りの嘉永4(1851)年に完成させ、久々井村・北浦村(共に岡山市)・胸上村(玉野市)の新田・塩田開発も成功させた。武左衛門一代で広大な塩田や新田が開発されており、塩田王・干拓王の名声が今日まで響き渡っている。塩田の経営方法の特徴として、「当作歩方制」という野﨑家独自の制度をあみ出す。

塩田経営が軌道に乗った天保末頃(1840年代)から、茶道・華道・絵画・和歌などの風流に親しむようになる。元治元(1864)年没。

熊田 恰くまた あたか

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【1825~1868】文政8(1825)年、備中松山城下本丁(現高梁市川端町)にて、松山藩士・熊田武兵衛の三男として生まれる。

山田方谷が学頭を務めた有終館で学び、新影流の師範であった父武兵衛のもとで剣術を修めた。恰は松山藩きっての剣の達人であり、その門人は数百人に上った。

慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いの際、幕府方の藩主・板倉勝静の親衛隊長として大坂詰めで活躍した。戦いののち、板倉勝静より命令を受け玉島(現倉敷市玉島) まで帰ったが、ここで岡山藩の征討をうけた。岡山藩より強硬な要求を突き付けられた恰は、岡山藩あてに藩主や部下の助命嘆願書をしたためた後、1月22日に現玉島ある西爽亭(旧柚木邸)で自刃した。

これにより玉島は幕末の戦火を逃れた。玉島の羽黒神社境内には遺刀を収めた小社が建てられた。また、藩主・板倉家の氏神である八重籬神社でも小社が建てられ、その功績が顕彰されている。

阪谷 朗盧さかたに ろうろ

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【1822~1881】文政5(1822)年、川上郡九名村(井原市美星町明治)の庄屋を務めた坂田家に生まれる。父について大和・大坂に移り、大坂では大塩平八郎に学んでいる。さらに朗盧は江戸に出て、昌谷精渓・古賀庵に学んだ。

帰郷後は、嘉永4(1851)年に伯父の山鳴大年の援助を受け、後月郡簗瀬村(井原市芳井町簗瀬)に桜渓塾を開いて近隣の子弟を教えた。2年後の嘉永6(1853)年に、領主である一橋家の代官・友山勝次によって開設された郷校「興譲館」の初代館長として招かれた。近隣はもとより遠くからも朗廬の名声を慕って入塾者があり、寄宿生は多いときで100人を超えたという。多くの子弟を教育するばかりでなく、久坂玄瑞や渋沢栄一など著名人との交流もあった。

明治元(1868)年、興譲館を甥の坂田警軒に託し、広島藩に招かれる。そして、明治3(1870)年に藩主に従い東京へ移り、廃藩置県後は、新政府の役人として仕えた。また、新政府に仕えるとともに日本初の学術団体である明六社に儒者として唯一参加する。社員の中では最長老でありながら寄稿した論文は3番目に多く、精力的に活動している。明治14(1881)年没。

佐久間 象山さくま しょうざん

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【1811~1864】文化8(1811)年、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれる。

天保4(1833)年、江戸に遊学、山田方谷と佐藤一斎塾に在籍し「二傑」と称され、互いに激論を交わすこともあったと伝えられる。

天保10(1839)年、江戸で塾を開くが、アヘン戦争に衝撃を受け、天保13(1842)年、老中・真田幸貫に『海防八策』を提出した。弘化元(1844)年、オランダ語の習得を始め、洋学の知識を吸収した。江川英竜に西洋砲術を学び、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らに伝授するなどした。

嘉永7(1854)年、吉田松陰の密航事件に連座したのち、9年間松代に蟄居、この間、現実的な和親開国論に転じ、公武合体、開国を説いたが、蟄居を解かれたのち、元治元(1864)年、京都で攘夷派に暗殺された。著作に『省諐録(せいけんろく)』などがある。

河井 継之助かわい つぎのすけ

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【1827~1868】文政10(1827)年、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。

安政6(1859)年、備中松山藩にて山田方谷の門下となり、山田方谷が進めた藩政改革の成果を目の当たりにし心酔したと伝えられる。

文久2(1862)年、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると京都詰を命じられる。その後、慶応元(1865年)、郡奉行となり藩政改革に着手、成果を上げ役職を歴任出世し、奥州の雄藩としての基礎を固めた。

慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争においては平和裏の解決を求め奔走したが決裂した。参戦に踏み切り善戦したが長岡城は陥落、戦闘の中で手傷を負った。再起を図るため山越えし会津へ逃れたが、傷は深く死期を悟り、後図を託した後、息を引き取った。