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方谷の

財政破綻寸前、借金300億円の状態をわずか7年で300億円の蓄財に変えた方谷の改革。
方谷の改革とは?そして方谷の生涯とは?方谷という人物に迫る。

山田方谷(1805年~1877年)は江戸時代末期から明治時代初期の漢学者、備中松山藩士です。
学者として藩に仕えていた方谷でしたが、藩主板倉勝静(1823年~1889年)のもとで藩政改革を断行し、大きな成功をおさめました。
勝静が幕府の老中となると、その政治顧問として幕政にも関与しました。 また、藩校有終館や方谷自身の私塾、明治以降には備前の閑谷精舎(閑谷学校)などで多くの子弟を教え、備中松山藩を支えた人々を育てています。越後長岡藩の河井継之助(1827年~1868年)のように他藩から来遊する者も数多くありました。方谷自身は明治維新を境に教育に専念し、世に出ることを拒みましたが、その思想、手法、人材は次世代の大きな財産として残されました。

小倉魚禾作「山田方谷像」高梁方谷会蔵

年譜から見る山田方谷

◆幼年~京都・江戸遊学~有終館学頭 時代

文化2(1805)年
2月21日 備中松山領阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)で生まれる。
諱(いみな)は球、字(あざな)は琳卿、通称は安五郎、幼名は阿璘(ありん)、号は方谷。
文化6(1809)年
5歳 新見藩儒丸川松隠の門に入る。
文化7(1810)年
6歳 神童の噂が藩公の耳に入り、藩公の前で揮毫を披露する。
文化14(1817)年
13歳 「諸葛武候の図に題す」の詩を作る。
文政3(1820)年
16歳 母、父を連続して亡くしたため、親族の相談によって、方谷が西方の実家を継ぐ。これより、家業と勉学に励む。
文政8(1825)年
21歳 松山藩主板倉勝職(いたくらかつつね)より、勉学に対し2人扶持(給料)を賜る。
文政10(1827)年
23歳 京都に遊学し、丸川松隠の旧知である寺島白鹿(てらしまはくろく)に学ぶ。
文政12(1829)年
25歳 松山藩有終館会頭(先生)を命じられる。
天保5(1834)年
30歳 佐藤一斎の門に入る(同門に佐久間象山が入門)。3年間従学し、後に塾頭となった。
天保7(1836)年
32歳 有終館の学頭(校長)を命ぜられる。
天保9(1838)年
34歳 有終館学頭(校長)の傍ら家塾牛麓舎を城下御前丁の邸宅に開く。寺島義一(白鹿の子)、進鴻渓らが学ぶ。

◆藩政改革~幕政参画 時代

嘉永2(1849)年
45歳 4月、板倉勝静(いたくらかつきよ)が備中松山藩主となり、12月、勝静から元締役兼吟味役に任命され、藩の財政を一手に担う。
嘉永3(1850)年
46歳 当時松山藩の借金は10万両(現在の300億円)近くあり、藩政の改革に着手。負債整理や産業振興、上下節約などの諸政策を講じる。
嘉永5(1852)年
48歳 命ぜられて郡奉行を兼務し、民政改善に努める。松山に撫育所、江戸に産物方を設置する。藩札の半数以上を買収し、近似(ちかのり)河原で焼却する。
安政3(1856)年
52歳 年寄役助勤となり藩政に参与。
安政4(1857)年
53歳 藩の借財10万両を整理し、その上余財10万両を残し、元締役を退任する。藩主板倉勝静が幕府の寺社奉行となる。
安政6(1859)年
55歳 西方村長瀬(現高梁市中井町)に住宅を建て、移住する。
文久2(1862)年
58歳 板倉勝静が幕府の老中となり、その幕政顧問となる。
元治元(1864)年
60歳 第1次長州征討が起こり、板倉勝静が山陽道先方を命じられたので、その留守の兵権を預かり、頼久寺に入り郷兵を部署に配置する。
慶応2(1866)年
62歳 備中騒動が起こり、一隊を率いて野山口(現加賀郡吉備中央町)を守る。
慶応3(1867)年
63歳 京阪の地で板倉勝静を補佐した後、帰藩を許され短刀を賜る。同年、江戸幕府が大政奉還により政権を返上。

◆松山征討~長瀬塾・小阪部塾~閑谷学校 時代

慶応4(1868)年
64歳 戊辰戦争が始まり板倉勝静が箱館に向かう。備中松山城を鎮撫使(岡山藩)に開城。玉島の西爽亭熊田恰が自刃。長瀬塾を開く。
明治3(1870)年
66歳 長瀬から小阪部(現新見市大佐)に移り小阪部塾を開設、子弟教育にあたる。
明治4(1871)年
67歳 明親館(現真庭市真鍋)で開校に臨み『大学』を講義する。
明治5(1872)年
68歳 金剛寺に方谷庵(現新見市大佐小阪部)を営む。
明治6(1873)年
69歳 臥牛亭を移築(八重籬神社境内)。閑谷学校で講義を受け持つ。知本館で『大学』を講義する。
明治7(1874)年
70歳 温知館(現久米郡美咲町)で開校に臨み『論語』を講義する。
明治8(1875)年
71歳 高梁で板倉勝静と対面、板倉勝静は長瀬で3泊する。
明治9(1876)年
72歳 7月の閑谷行き、8月の知本館行きが最後となる。
明治10(1877)年
73歳 6月26日午前8時 小阪部で死去。枕元には板倉勝静から賜った短刀・小銃と王陽明全集が置かれた。西方村(現方谷園内)に葬られた(法号:方谷院深文純徳居士)。
参考文献:山田準編「山田方谷先生年譜」(『山田方谷全集第一冊』所収)