鎌倉時代からの歴史が息づく、備中松山藩・板倉氏五万石の城下町。戦災を受けなかったこともあり、山陽でも屈指の美しい町並みが残っています。標高430mに天守をもつ備中松山城の南麓、城主の平時の住まいである御根小屋跡(現 高梁高等学校)を起点に、南へ近世松山藩の城下町が発展。江戸時代の町割りがそのまま生きており、至る所で当時の面影をしのぶことができます。高梁川の中流域という地の利を生かし、水運を利用した物資の集積地として繁栄。かつての商売の中心地の本町、下町、南町の通りは松山往来の名が付き、街道筋には間口が狭く奥行きが長い平入りの町家が立ち並びます。寺町を中心に多くの神社仏閣が点在。情緒豊かな町並み散歩が楽しめます。格式ある門構えの武家屋敷が250mにわたり続く石火矢丁(現在は石火矢町)はかつての武家の町で、岡山県のふるさと村に指定されています。かつて武家屋敷があった町の呼び方に「丁」を使い区別したのも江戸時代の名残です。
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備中松山城
大松山、天神の丸、小松山、前山の4つの峰からなる臥牛山(標高480m)に築かれた備中松山城は、現存12天守のなかで唯一の山城です。高梁が山陰と山陽を結び、東西に延びる主要街道が交差する要地であったため、戦国時代は奮奪戦が絶えない土地柄でした。1240(延応2)年、秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いて以来、780年にわたり19代の城主交代が繰り返されたと伝わります。難攻不落の面影を残す見どころの一つが大手門跡付近にそびえる石垣群。そそり立つ巨岩とその上に組み合わせた石垣は息をのむ光景です。
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頼久寺
古刹として知られる頼久寺の草創は不明ですが、瓦に菊の御紋が見られることから、その使用が許された1300年頃にはあったとされています。永正年中(1504~21)、備中松山城主 上野頼久候が修復したのを機に頼久寺に改名。1600(慶長5)年、関ケ原の戦い以降、幕府の天領となった高梁に小堀正次、政一(遠州)父子が奉行として着任し、頼久寺を政務の仮の居館として使用。その際、作庭家としても知られた遠州が手がけた、モダンな蓬莱式枯山水があまりにも有名です。白砂敷の中央に置いた石組やサツキの大刈込などすぐれた意匠が残されています。
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武家屋敷
江戸時代の道幅そのままに、高い塀に囲まれた風格のある門構えの屋敷が250mにわたり立ち並ぶ石火矢町ふるさと村。かつて武士が暮らしたエリアで、武家屋敷2軒を公開しています。武家屋敷旧折井家は、180年前の天保年間の建築で、中上級武士が住んだと伝わります。併設の資料館では、展示の武具や検地帳などから当時の様子がうかがえます。武家屋敷旧埴原家は、江戸時代中期から後期にかけて建てられた上級武士の住まい。藩主勝政公の生母の実家でもあるため、三ツ花懸魚や花頭窓といった寺院建築や数寄屋風の凝った造りが随所に見られます。
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寺院群
備中松山の城下町は、寺院の多さが特徴の一つ。高梁川の中流域に位置し、江戸時代には新田開発や高瀬舟の整備などで目覚ましい経済発展を遂げた歴史の一端に触れることができます。特筆すべきは、備中松山城の南側に連なるように並ぶ10箇寺以上の存在です。高い石垣の上に築かれている、まるで城郭のように見える頼久寺や龍徳院、巨福寺、寿覚院、薬師院、松連寺などは、いざ戦になると軍事的防衛の役割を持つように造られていたとのこと。1615(慶長20)年の一国一城令で多くの城が軍事的拠点や砦としての機能をなくす廃城になった代わりの策だったようです。他に類を見ない寺院群が織り成す、独特の景観には圧倒されます。
お話をうかがった
高梁観光ガイド会
会長 小倉 照佳さん
ピッツェリアミオ
イタリア人が故郷の味と太鼓判を押す、縁がある本格的なナポリピッツァが食べられます。水と粉と塩とイーストだけで練った生地を発酵。450度ほどの薪窯を使い、約2分で焼き上げるため、食感も風味も豊かです。チーズがとけて、外はサクサク、中はふわふわの焼き立て2、3分の内に食べるのがナポリ流。マルゲリータ(27cm)は低価格なのも魅力です。











