浅海から生まれた街
倉敷川を中心とする一帯は早くから干拓による田地の開発が進められていました。その後、慶長五年(1600)に備中国奉行領となり、倉敷は松山藩の玄関港として上方への物資の輸送中継地となります。やがて寛永十九年(1642)に代官所が置かれ、天領となりました。
当時の倉敷川は潮の干満を利用して多くの船が航行しました。倉敷は物資輸送の集積地として、川沿いには、塗屋造りの町家や白壁土蔵造りを中心とする町並みが形成されていきます。
備中南部の干拓地で行われていた綿作の発展に伴って、江戸時代中後期には綿加工業が展開。綿の集荷の中心だった倉敷や玉島、小倉織・真田紐・雲才足袋などを生産した児島は倉敷市の繊維産業発展の基礎となり、商業都市として繁栄しました。
倉敷の産業革命
天領として栄えた倉敷は、明治維新により米と綿の単なる集積地と化し、発展から取り残されていきます。
この暗い状況から脱却しようと大原氏を中心に相談し、明治二十一年(1888)代官所跡に倉敷紡績(クラボウ)が創設されました。
以来、倉敷紡績の隆盛は倉敷の発展に寄与することになり、倉敷川を通じて、倉敷紡績でできた繊維や茶屋町地域のさまざまない草製品の出荷が行われました。
繊維の町として発展
足袋、学生服・作業服と生産の中心が移っていく中、「繊維の町」児島では昭和四十年(1965)に国内で初めてジーンズが量産されました。
今日では日本のジーンズの主力生産地として、ジーニストに愛される製品を次々と世に送り出しています。
日本有数の臨海工業地帯
新旧が渾然と調和する文化都市くらしきは、県西部の中心として発展していきました。
戦前から工業の町として発展してきた水島では、戦後本格的な工業化が進められ、大型船舶の入港を可能にするための航路地の浚渫に着手。発生する土砂で海面を埋め立てて工業用地を造成。
昭和三十九年(1964)には水島地区を中心とする岡山県南地区が新産業都市に指定されました。
以降、数多くの企業が進出し、水島コンビナートとして日本有数の臨海工業地帯となりました。
備中地方の拠点として栄えた港町
玉島はかつて瀬戸内海に点在する小さな島々でしたが、江戸時代になると松山藩により大々的な新田開発が行われました。
元禄時代には北前船と高瀬舟の水運により、玉島は港町として栄えました。
今でも虫籠窓や格子、漆喰窓やなまこ壁を持つ本瓦葺きの商家や土蔵が数多く残されており、背後の山の緑と水辺景観と一体となって優れた歴史的景観を残しています。
歴史と文学の繋がりが深い町
古代は豪族・下道氏(しもつみちし)の支配する地域であり、この下道氏により奈良時代に遣唐使となり、後に右大臣まで昇進した吉備真備を輩出しました。
江戸時代は岡田藩伊東氏の領地となった後、太平洋戦争末期に横溝正史の疎開地となり、戦後も暫くここに居留するなど、歴史と文学の繋がりが深い町でもあります。