源平水島合戦
寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで源義仲(木曾義仲)に大敗し、都を追われた平氏軍は九州に逃れたのち、屋島に本拠を移します。
平氏追討のため四国の屋島へと軍をすすめていた義仲が率いる源氏の軍勢は、水島が途(現在の玉島湾)で平氏軍に海上戦を挑みました。両軍はそれぞれ、当時は海に浮かぶ島であった倉敷市玉島の乙島と柏島に陣を構えました。
源氏軍は約5千人の兵を率い、100艘余の船で陣取り、平氏軍は200艘余の船に7千人が乗り込み海上戦を仕掛けた、とされています。
この水島合戦では、正午ごろから日食が起き、それを予測していた平氏軍が、海戦に不慣れで動揺した源氏軍に圧勝したとされています。
水玉ブリッジライン玉島大橋(通称源平大橋)。
写真左側(乙島)に源氏軍、右側(柏島)に平家軍が陣を構えました。