昔、倉敷市藤戸周辺は小さな島が点在する海でした。 800年ほど前、この藤戸の地で「源平合戦」として知られている源氏と平家の戦いがありました。
治承4年(1180年に始まり、全国的に展開された源・平両氏による戦乱は、建久元年(1190年)奥州藤原氏の滅亡まで、10年間にわたりました。 歴史的には日本が、古代から中世に脱皮するためのこの動乱中、倉敷市内で2度の合戦が行われました。 寿永2年(1183年)10月には玉島でと想定されている水島合戦があり、翌年(1184年12月、藤戸の合戦がありました。 藤戸にはその頃から、江戸・明治にかけて、多くの史跡が現在も多く残っています。 >>藤戸周辺の史跡を巡るパンフレットはこちら奈良時代に行基菩薩が開基。高野山真言宗。平家滅亡後、佐々木盛綱は両軍戦没者の供養に、大法会を催し、建物の修復もした。境内の石造五十層党は鎌倉中期の寛元元年(1243年)銘、県指定重要文化財である。
盛綱橋の東、天城小学校の校庭に続いて小さい丘がある。もとは藤戸寺が管理していた海中の島。頂上に古びた宝篋印塔ほうきょういんとう(経塚)と六角形の石塔婆(漁塚)がある。佐々木盛綱に浅瀬を教えた「浦の男」の供養に建てられたという。
京都の醍醐寺三宝印の庭は国の特別名勝史跡だが、この庭で有名な藤戸岩は、浮洲岩と呼ばれ海中に浮き沈みしていた。江戸時代に、水尾筋を残して南北から干拓が進んだ頃、かつて岩が在ったところに記念の碑が建てられた。碑名は、熊沢藩山の書と伝えられている。
元暦元年(1184年)12月7日早朝、源氏の武将佐々木盛綱は僅かな部下とともに海に馬を入れた。対岸の種松山一帯に布陣する平家の軍との間に、藤戸合戦が開幕した。鎌倉の総大将頼朝は海を馬で渡った例がない、と賞賛した。
盛綱が源氏方の先陣としてここに上陸し、戦後に庵を建てて戦没者や、浅瀬を教えて盛綱に切られた若い漁師、浦の男の霊を慰めたと伝える。北の大地の畑を、少し深く掘れば、錆びた武具や人馬の白骨がよく出たといわれる。
盛綱に切られた浦の男には一人の母がいた。息子の無残な最期を知り、佐々木と聞けば笹まで憎いと笹を抜いてしまった。謡曲藤戸では、盛綱の馬に縋り、無情な仕打ちを恨む哀切な筋書きになっている。
藤戸合戦で源氏方が勝利を収める機縁となった盛綱の行動は、平家滅亡後に児島をあてがわれる事で報いられた。新領地にやってきた盛綱は土地の有力者に服従を求め、誓紙を差し出させた。誓紙を書く硯水を汲んだ井戸と伝える。
このあたりは少し土地が高い。乗り出し岩から海に入った盛綱は、ここで馬を休めた。持っていた鞭を水底にさしたが、いつか巨木に育ち、地名となる。藤戸寺にある盛綱像はこの木が枯れたのを利用し、文政10年天城藩士山脇十二郎が彫刻した。
背後の高坪山一帯に布陣した源氏の軍が、この井戸を利用したという。蘇良の意味は分からない。近世・現代を通じ、飲み水に困る新田地帯の住民によく利用された。
境内三社に浜神社があるが、ここも海に面していた古いやしろである。盛綱が出陣前、社頭の松に旗を建てて戦勝を祈った。もとは少し上にあったが盛綱が正治元年(1199年)現在地に移したという。
天城のお櫻山という小高い丘に、天城池田家の墓が並ぶ。慶長14年(1609年)に下津井城を預かった由之を初代に数えると、昭和元年の年末に没した政佑まで、12代となる。代々岡山に居住し、分家格で厚遇され、本藩の施政を助けた。明治以降は男爵に列した。
幕府を憚りお茶屋と称したが、実質は陣屋であり支藩の格式を持っていた。初代由之が児島軍で32000石と下津井城を預かるが、寛永16年下津井城破却後、天城で政庁を開き、家臣を居住させた。その意味で天城は城下町でもあった。
明治23年建築の県下で二番目に古いキリスト教会である。(県下最古は高梁キリスト教会) 図面だけで洋風建築に挑戦した、当時の大工には感心する。天城についで岡山や高梁に建てられた。岡山県の史跡である。
この外にも当地区には、源平合戦にまつわる伝承地が多く残されています。また天城池田公に関する遍照院・正覚寺・静光寺・海禅寺、または広田神社、素盞鳴神社などの、由緒ある寺社があります。一度散策にお出かけ下さい。
この特集の作成に当たって、藤戸史跡保存会「藤戸周辺の史跡めぐり」を参考にさせていただいています。 倉敷市内で起こった源氏と平氏の戦いは、このほかに、水島合戦があります。 こちらで紹介していますので、興味のある方はぜひご覧ください。 源平合戦特集 ~水島合戦~