祝日本遺産認定 美観地区散策
倉敷は宇喜多秀家により酒津から高梁川の水と、児島湾の海水の進入を防ぐ宇喜多堤が作られことで、新田開発により発展してきた街です。川湊として賑わっていきました。倉敷川は児島湾につながっており、潮の干満に合わせて船が往き来する運河として機能していました。
※倉敷川湖畔
備中国の倉敷村などは寛永19年(1642)から幕府直轄領(天領)となった。備中南部は綿・菜種などの商品作物栽培が盛んになり、延享3年(1746)倉敷村に幕府支配の拠点となる代官陣屋が置かれた。陣屋の新築により倉敷の町は活気を見せ、多くの大地主や豪商の屋敷が軒を連ねるようになった。
倉敷市HP市の沿革より引用
代官陣屋は焼失しており、現在アイビースクエアの一角に碑が建てられています。幕末、長州藩第2奇兵隊の一部隊士が隊を脱走し、倉敷代官陣屋と浅尾藩(現総社市)陣屋を焼き討ちする、倉敷浅尾騒動といわれる事件がありました。
美観地区周辺では干拓以前や、干拓に伴い入植した家などの中から「古禄」と呼ばれる、村高の大部分を所持し、村役人の地位を世襲した古い家柄や、新興商人として、地位や財力を得、村政に対して発言力を持っていった(古禄に対して)「新禄」が現れました。
さて、倉敷の古名は「阿知」と言われるのですが、その名を持つ阿智神社では春季例大祭が行われていました。主神は古代より航海の神、海上貿易を営む大商人の信仰する商業の神でもある宗像三女神です。
美観地区お馴染みの素隠居(すいんきょ)とは、阿智神社のお祭りの御神幸の雌雄獅子に付き添う翁(おきな)と媼(おうな)の面を被った若者のことで、神社近くの戎町の宰領をつとめていた沢屋善兵衛が寄る年並に勝てず、人形師に頼んで「じじ」と「ばば」の面を作らせ、店の若者にこの面を被らせ、主人の代理として御神幸の行列に参加したことがルーツと言われています。
時代は明治維新を経て、倉敷の玉島地区と児島地区には、紡績工場がありました。活気を失いつつある倉敷地区でも、紡績工場による地域産業活性化の構想を持ち、実現に奔走した若者が現れました。小松原慶太郎・大橋沢三郎・木村利太郎。この3人は「倉敷の三傑」として、現在も語り継がれています。
アイビースクエア内にある倉敷紡績記念館は、クラボウ設立当時に建てられた原綿倉庫だったところです。倉敷紡績のあゆみが紹介されており、「倉敷の三傑」についても触れられていました。
小松・大橋・木村の倉敷三傑が、小高い所から焼き討ちにあった代官所跡を見おろし、その場所へ倉敷紡績創設の決意をしたところが、この阿智神社だったと言われています。
それでは観光案内所からのお知らせです。倉敷紡績所跡地であるアイビースクエア内アイビー学館ではイベント「倉敷いぐさ祭り」が開催されています。(~6/11まで)
現在の倉敷美観地区の街並みは、江戸期の白壁商家や洋風の建築物が入り交じり、独特の景観を保持しています。ぜひ倉敷へお立ち寄りください。おすすめの散策コースはこちら
https://www.kurashiki-tabi.jp/extra/ohara/place.html
※倉敷川湖畔、倉敷考古館、井上家住宅、大橋家住宅、素隠居、倉敷紡績記念館、倉敷館、アイビースクエアは4月に日本遺産に認定された「一輪の綿花から始まる倉敷物語」の構成文化財でもあります。
アクセス
倉敷美観地区 JR倉敷駅より徒歩12分