吉備真備ゆかりの地
倉敷市真備町(旧吉備郡真備町)の地名は、郷土の偉人吉備真備(きびのまきび)が生まれたところとしてつけられたものです。
真備町のあちこちに伝わる真備公ゆかりの遺跡などを訪ねました。
遺徳をしのぶ
真備町の西方、小田川のほとりに<琴弾岩(ことひきいわ)>という大きな岩があります。晩年を郷里で過ごした<真備公>がその岩の上でよく琴を弾いていたと伝えられているもので、地元では毎年中秋の名月のころ、<琴弾祭>を開いて筝曲を演奏するなどして、郷土の偉人をしのぶといいます。
吉備真備という人
吉備真備は、奈良時代、真備町あたりで勢力のあった氏族下道国勝(しもつみちくにかつ)の子として生まれました。早くから「一を聞いて十を知る」という大変な神童だったそうで、22歳のとき遣唐留学生として中国に渡り儒学をはじめ天文学や兵学を修め、学者として知識人として重用されるようになります。57歳のとき再び遣唐副使として中国入りして多くの文物を学び、帰朝後は武勲をあげるなどして政治的にも活躍し、ついに右大臣にまでのぼりつめます。
つまり、吉備真備は、当時の一級の学者・知識人であり政治家でもあった人で、地元の人たちは奈良時代の大昔、小さな寒村から中央政界の大臣にまで上った吉備真備を大変誇らしく思い、<真備公>と親しみを込めて呼んでいます。
吉備公館址と真備公産湯の井戸
その<真備公>が生まれた屋敷跡とされているのが、真備町の<吉備公館址>です。いまは屋敷などはなく、道端に明治33年建立された<吉備公館址>という自然石と、なぜかラテン語で書かれた<真備公>の顕彰碑があるだけです。
<真備公>はこのあたりで生まれたのか、と感慨あらたに歩いていると、まさにそれを裏付けるような<真備公産湯の井戸>がありました。<吉備公館址>からわずか10mばかりのところです。
<真備公産湯の井戸>は中国風の朱塗りの建物を真ん中に小さな公園になっていて、建物の下にコンクリートで密閉された井戸があります。井戸の中は覗き込んでも見えませんが、地元の人によると清水が湧き出ていて、その水は3mばかり離れたところの蛇口から出るようになっています。水は少しぬるめでした。
まきび公園
<真備公産湯の井戸>の西方には、<真備公>ゆかりの施設として最もよく知られている<まきび公園>があります。田んぼや民家の向こうに肉眼でも見える距離で、歩いても5分もあれば着きます。
<まきび公園>は、<真備公>が遣唐留学生として学んだ中国の西安市に記念碑が建立されたのを機に昭和61年に整備されたもので、西安市と同じ記念碑が置かれています。
公園の入り口は円形の窓のある門があって、そこを入っていくと池に架かる橋、その向こうに六角亭と、いかにも中国風のつくりになっています。園内は芝生の丘のようになっていて、樹木の間を谷川のように疎水が流れています。サクラやボタンが咲く4月から5月の季節が一番いいそうです。
まきび記念館
公園の一角に昭和63年開館したのが<まきび記念館>です。大屋根に朱塗りの柱が印象的な建物で、ここには岡山県内外に残されている<真備公>関係の資料を写真やパネルなどとともに展示しています。遣唐船の模型のほか、目を引くのは、中国の山西大学芸術学部教授が描いた大きな遣唐使の絵。<真備公>と唐の有名な玄宗皇帝が会見する絵などが並んでいます。いずれも迫力ある絵です。
吉備寺
同じく公園の入り口には<真備公>の菩提所として知られる<吉備寺>があります。奈良時代、<真備公>が創建したと伝えられていますが、当時のものは焼失してしまっており、立派な楼門など現在の建物は江戸時代に再建されたものです。しかし寺の敷地には<真備公>が建てた寺があったことを示す礎石が数ヵ所に残されています。
吉備様
<まきび記念館>の裏手に階段があり、これを上っていくと<吉備様>と地元の人が呼んでいる小さな神社があります。その境内を裏手に回ったところに<真備公>の墓とされている墳墓があります。石柱で囲まれた中に古い形の石塔がたち、その前に切り花が供えられていました。
<真備公>は中央政界を引退したあと晩年を故郷真備町で過ごしたといわれ、そのゆかりから地元の人たちは<真備公>を<吉備様>として祀っています。<吉備様>の鐘楼の鐘は今でも時間ごとに打ち鳴らされていて、地元の人たちが<真備公>を親しく思い起こすよすがとなっています。また、毎年1月中旬には例大祭が開かれ、<真備公>のおかげを得ようと多くの受験生でにぎわいます。