山に伏して ここに霊山あり
倉敷市には水島と呼ばれる地名があります。
名称の由来は2説ある。現在の玉島の柏島あるいは乙島、もしくは両方一帯を古くは「水島」と呼んだ。これに由来するのが1説。源平の水島合戦はこの意味である。
もうひとつは現在の高梁川河口沖にある水島群島(上水島・下水島)に由来する説である。この上水島には古くから山伏の伝承がある。 (ウィキペディアより)
山伏の伝承が気になり、倉敷市林にある熊野神社に行ってきました。
山伏や修験道の祖と言われる役小角の高弟5人は、霊夢に導かれ熊野権現のご神体を奉じ、現在の倉敷の熊野神社を遷座しました。熊野神社と五流尊瀧院は明治の神仏分離までは新熊野権現と呼ばれていました。
熊野神社には後鳥羽上皇の宝塔があります。1971(昭和46)年の解体修理した際、ご遺骨が確認されました。鎌倉時代初期1221(承久2)年、討幕に失敗した後鳥羽上皇は隠岐へ配流されます。
後鳥羽上皇の配流に続き、皇子冷泉宮頼仁親王は、倉敷市児島へ配流となり五流尊瀧院へ幽居されました。尊瀧院へ入る際、佐々木盛綱の子、信実の一族が護衛したと言われています。
話は反れますが、佐々木盛綱の話、「謡曲藤戸」で有名な藤戸は熊野神社からわりと近くにあります。
それから18年後、後鳥羽上皇御崩御の1年後に冥福を祈るため上皇宝塔を建てたと言われています。
ところで、山伏は呪術や祈祷などで山岳の持つ自然の霊力を習得するといわれています。最初の水島の由来のもう一つには役小角の5人の弟子たちなどが船で熊野権現のご神体と共に瀬戸内海を漂流しているうちに島に漂着。船に積んでいた清水が無くなったところ、一同が水を得られるように一心に祈ったところ、急に海の潮水が、真水に変わったと言います。島には水島の名が付きました。これが上水島に由来する説です。(福田町史より)
10月4日は翌日に「採燈大護摩供」を控えた熊野大権現祭の日でした。山伏姿の修験者がいらっしゃいました。山伏が法螺貝を吹いています。感動して見ていると一行は瞬く間に山の方へ行かれました。
開山から1300余年。頼仁親王の姿見をした井戸は役子角の高弟がいた時代から変わらない霊水なのでしょうか。山も水も神聖なものであり、その事実は今も変わることがないのだと感じられました。
最後にお知らせです。熊野神社の近くには熊屋酒造という名の蔵元があります。もとは熊野から宮大工として熊野神社改修のため児島へ来られたそうです。熊屋酒造さんも参加される有料試飲会が倉敷市美観地区で行われます。是非ご参加下さい。
「備中杜氏の酒」~新渓園で乾杯~ PDF備中杜氏の酒~新渓園で乾杯~
日時;平成27年10月23日(金) 17:00~20:30
場所;新渓園(倉敷市中央1-1-20)
料金;チケット制(200円×5枚綴り)1,000円
申込;倉敷観光コンベンションビューロー 086-421-0224