古文書で知る郷土の歴史
6月5日(金)~8日(月)倉敷市役所真備支所で、平成27年度資料展示会が行われました。今回のテーマは「事件でみる倉敷の幕末維新」。日本の転換期に起こった郷土の歴史の一端を、古文書を通して知ることができました。資料はペリー来航を3年後に控えた、嘉永3年から展示されました。職員による展示解説も行われ、来場者の方々が熱心に説明を聞き入っていらっしゃいました。
高梁川の上流から広島に続く中国山地一帯は風化しやすい花崗岩であり、また、古代から近世まで続いたたたら製鉄が行われたことが砂の流下を速めたそうです。砂鉄を採るために山を崩して岩を砕く鉄穴(かんな)流しは浅瀬や干潟を広げていくことになり、新田開発にも適しましたが一方で、洪水問題も抱えていました。嘉永3年5月25日から雨模様となり翌月1日2日は大雨となり3日には支流の堤が決壊し大水は早島、妹尾まで流れたそうです。
高梁川の度重なる甚大な洪水被害のため明治40年~大正14年にかけて川の大改修が行われました。高梁川沿いにある酒津の東西用水はこの対策でもあり、内務省の事業としておこなわれた大規模なものでした。酒津公園のルーツはここだったのですね。また現在も高梁川下流の神社には、お砂持神事(高梁川氾濫による神社奉納の作物がない年、せめて砂をお供えしようと樽に積んで奉納したのが始まり)が行われているところもあります。
玉島事変と呼ばれる事件は、当時の玉島が備中松山藩の飛び地であったことと、松山藩主板倉勝静が老中首座であったこと、徳川の血統であることが起因しました。
玉島事変が記されています
明治元年、鳥羽伏見の戦いの後、熊田恰の部隊は藩主の命を受けて大阪から松山に戻っている途中玉島にいました。一方、松山城下への進軍の予定の岡山藩に朝敵松山城主板倉勝静が、兵を率いた部隊を松山へ向かわせているとの報告が入ったのです。玉島は岡山藩部隊に包囲され、戦火に巻き込まれようとしました。事態収束の条件は重役熊田恰、一死を以ての嘆願のみになってしまいます。
西爽亭の次の間の天井には、熊田恰の自刀の際飛び散った血痕跡が残っています。熊田恰の嘆願により松山部隊は助命となり、玉島は戦火から免れられました。熊田恰の恩に報いる為、明治3年、玉島の羽黒神社山上に熊田神社が建立されました。
熊田神社
備中松山藩家老熊田恰の生き様が描かれた芝居が昨年、羽黒神社境内で公演されました。昭和15年に描かれた台本が発見され、劇中で熊田恰が蘇りました。
倉敷県木札 廃藩置県で深津県になるまえ、倉敷県が存在しました。県知事は3人いたそうです。明治2年から4年の幻の倉敷県存在の証です。
明治維新最大の目的はご承知の通り、天皇を中心とする近代国家の建設であり、明治4年の廃藩置県により藩知事は罷免され、新たに中央政府より府・県知事が派遣されました。そして、天皇を中心とした中央集権体制が整い明治維新の大改革は達成されました。
倉敷市が管理する古文書は26万点あり、21万点が目録化されています。残り5万点は作成中とのことでした。今回のテーマに沿って年代順に展示されている資料を見て、郷土の歴史への興味が深まりました。テーマの現場となった場所や、最近新たに見つかった記録文書を思い出しました。郷土の過去と現在が豊かになりますね。興味は尽きません。来年が楽しみです。